ラフマニノフの舞曲に取り組んでいます。
甘い和声の響きが印象的なメロディーの多くを
生み出したラフマニノフですが、実は時代の波に翻弄
された不遇の作曲家ともいえます。
セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)
モスクワ音楽院で、ズヴェーレフに師事し、卒業後は
主にモスクワで作曲家、ピアニスト、指揮者としての
生活を始めます。
卒業する頃、ラフマニノフはズヴェーレフの紹介で、
尊敬するチャイコフスキーと出会います。
ラフマニノフは卒業作品であるオペラ「アレコ」上演
し評判になり、チャコフスキーからも高い評価を得て
いて順風な運びでしたが、その後の1897年交響曲
第1番の初演に失敗したラフマニノフはうつ病になり
��年間作曲ができず、精神科医ダーリ博士の催眠療法
などを受けることにより再び作曲活動に戻ります。
ここまでは有名なエピソードですが、ラフマニノフの
生きた時代というのは音楽的にも、そして祖国のロシ
アも大きな転換期でした。世代は違いながらも同じ
時を生きた作曲家として
チャイコフスキー (1840-1893)
ストラヴィンスキー(1882-1971)
コルサコフ (1844-1908)
ショスタコーヴィチ(1906-1975)
プロコフィエフ (1891-1953)
スクリャービン (1872-1915)
内外で有名な作曲家が名を連ねます。時代的にはロシ
ア内において1917年に共産主義革命が起こることによ
り音楽の持つ背景にお変化が生ずることに・・・
「共産主義国家」へと、改革され新しい国と国民のあ
りかたを模索しソヴィエト政府は、民族的であり社会
主義な路線へ変更されいわゆる社会主義国家としての
音楽を選ばざるえない状況になります。
ショスタコーヴィチはその共産主義の中で,あえて国
を(国策)を賛美する内容で音楽を書き綴った、壮大
な交響曲の数々は今でも高い評価の作品が多いが作曲
当時はこの社会主義リアリズムに迎合しなければ音楽
がつくれなかった時代に直面したのです。
ラフマニノフと同期のスクリャービンは神秘和音の先
駆者であり、この機能和声から外れた新しい音楽への
試み、同時期に後期のバルトークやスクリャービンに
よる調性からの脱却を図る、いわゆる「無調」の音楽
が流行するのです。
アカデミックな音楽は、新たな挑戦へと向かうことに
なります。
ストラヴィンスキーは変拍子の中から沸き起こる強烈
な印象,色彩感,リズムを全面に押し出した「春の祭
典」が作曲されます。
初演当時は暴動すら起きたものの、その際立つ個性が
評価され調性やハーモニー重視の音楽から、より新し
い響きを求められることになります。
その後20世紀初頭は新しい響きの追究から実験音楽と
言われるジャンルが盛んに作曲される流れを汲んでい
くのです。
そんな中、ラフマニノフの音楽は前時代的なハーモニ
ーやメロディを重要視し郷愁をそそる曲を多く作曲し
ていたので、少し時代遅れな評価をうけていたのも納
得できる理由だと思います。
時代は変わり音楽の求める方向が変わる変革の時代です。
しかしラフマニノフの音楽はそんな前時代的な評価をう
けていた反面、数多くの映画音楽で使われ人々を魅了し
てやまないメロディーメーカーであることもまた事実。
20世紀前半のロシアを取り巻く環境、そして音楽の環境
の変化。45作品の中でも有名な作品はどれも美しいメロ
ディがあふれており、そしてそれはどこか19世紀の美し
い調性へのあこがれや決意のようにも思えます。
彼の作曲する作品の多くにDies iraeのメロディが使われ
ており、彼の愛した音楽であることがよみとれますがベル
リオーズ以降、この旋律は「死」を暗示させるテーマとし
て多く使用されています。
ラフマニノフもその点を意識して書いていたことでしょう
失われゆく時代と時の流れ・・
それはどこかその時代の求める音楽にとりのこされてしまっ
たラフマニノフの嘆きや悲しみと、そしてそれでも敬愛する
チャイコフスキーをはじめとする古きよき時代の音楽への
回顧と憧れなのではと思わずにいられません。
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